@本殿、境内
A神明両宮、九社ノ宮1
B九社ノ宮2
C猿田彦神社、大神下前神社、兒宮、角鹿神社、土公
住所:
神紋:
右三巴・十六菊・五七の桐
御祭神:
伊奢沙別命
仲哀天皇
神功工合
日本武尊
應神天皇
玉妃命
武内宿禰命
御由緒:

御祭神七柱中の伊奢沙別命は本神宮の主神にして座して氣比大神(笥飯大神)と称え奉り、又御食津大神とも称え奉るは、古事記の伝によると皇太子譽田別命(應神天皇)武内宿禰命を随えて角鹿(敦賀)に行啓し給いしに氣比大神夢に現れ「吾が名を以て御子(譽田別命)の御名に易へん」と又宣り給わく「明日浜に幸せらるべし易名之幣を獻らん」と宣り給いぬ果して入鹿と云う魚浜に着きていたので譽田別命は「我に御食の魚を賜いぬ」と仰せられて御神名を称え奉り御食津大神と申されたのであって、即ち氣比大神は皇太子譽田別命に御食の御料としているかを奉られしにより御食津大神又は保食神とも称え奉るのである。
伊奢沙別命は角鹿海直の祖神に座し、御七代皇霊天皇の皇子吉備津彦尊に座すと云う。
この氣比大神往古より此の地に鎮座の神にて、仲哀天皇、神功皇后は文武天皇大寶二年八月四日勅宣により合祀せられ給い、又大和武尊(仲哀天皇の御父)應神天皇、竹内宿禰命、玉媛尊(神功皇后御妹)の四柱は夫々別殿に祀られ、これを四社ノ宮と総称奉っている。
宇多天皇寛平五年十二月正一位勲一等の極位を進められ給うた。

『敦賀郡神社誌』より引用

創建:
不明
社格:
越前国一宮、式内社、官幣大社

◆◆◆

雑感:

越前国一宮敦賀氣比神宮です。

敦賀人なら、生を受けては氣比神宮で産湯を使い、七五三に合格祈願、成人式、結婚式と氣比神宮に関わりが無い人は居ないと言っても過言ではない。

そんな敦賀人の総氏神とも言える氣比神宮、その歴史はとても古く、記紀にも登場する由緒正しき神社である。

古事記によると、仲哀天皇が敦賀を訪れた際、武内宿禰(仲哀天皇の臣)の夢に伊奢沙別命が現れ、「私の名前と皇子(応神天皇)の名前を取り変えましょう」と言った。
武内宿禰が応えると、「名前を交換してくれたお礼を差し上げましょう。明日の朝、浜辺に出てみなさい。」と言った。翌日言われた通り浜辺に出ると、鼻の頭が傷ついたイルカ(イルカ漁は鼻の頭に銛を突く)が浜を満たすほど打ち上げられていた。という話が記されている。

また、日本書紀にも誉田別皇子(応神天皇)が武内宿禰と敦賀の笥飯大神(氣比大神)に参拝した旨が記されている。

神社正面の大鳥居は、日本三大鳥居(木造)の一つで重要文化財である。ちなみに残り2つは厳島神社と春日大社ということらしい。
なお、本殿は国宝であったが、敦賀空襲によって焼失してしまった。ふざけろ○○○!
とても残念である。

境内には、本殿以外にも式内社として角鹿神社、大神下前神社、天利劔神社、天伊弉奈姫神社、天伊弉奈彦神社が鎮座している。
詳細は境内社のページ(ABC)に記載する。

色々書いては見たが、敦賀人にとって氣比神宮はそんな大層な存在ではない(どーでもいいと言うわけではない)。親しみのある存在というか、身近な存在である。氣比の神もそうやって有史以来穏やかに敦賀を見守ってきたのだろう。

まぁしかし、人口6万のこんなちっぽけな街を栄えさせた(栄えてるよ)力は流石である。

境内の趣
全体の森厳さ
場所の分り難さ
※★は評価ではなくあくまで個人的な好きポイントです。

 

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