住所:
福井県敦賀市松原町130-2
神紋:
調査中
御祭神:
武田伊賀守以下四百十一柱
御由緒:
慶応三年三月敦賀の修験行壽院が神祗伯白川家の許可を得て其の院内に御霊大明神と尊称して諸士の霊を祀り、明治七年十一月水戸の人、根本彌七郎墓地附近に一小祠殿を創建して、松原神社と称し、英霊を祀らんことを官に請いしが、翌八年一月二十五日之を允許された、之が公に英霊を奉祀し、国家鎮護の神と仰ぐに至った始原である。

『敦賀郡神社誌』より引用

創建:
明治七年(1874年)
社格:
無格社

◆◆◆

雑感:

松原にある、松原神社及び水戸烈士の墓です。

【要略】
水戸天狗党は元治元年三月二十七日(1864年5月2日)に筑波山で挙兵、京都に向かい出立。挙兵時は62名であったが、行く先々で浪士や農民、町民が加わり、最盛期には1000名を超える集団になっていた。
栃木、群馬、長野、岐阜と幕府の追撃軍をかわしつつ、敦賀の新保まで到達したが、時期は12月、北国の冬は雪深かった。一行は雪と幕府軍に行く手を阻まれ、遂に投降した。
投降した党員は暗く衛生的にも悪い粗末な鰊倉(写真:左中央)に押し込められ、多くの病死者を出した。
元治二年二月四日、武田耕雲斎含む24名が処刑(切腹ではなく斬首)されたのを皮切りに、1か月以内に352名が斬首、137名が遠島、180名以上が追放処分となった。
こうして尊王攘夷の思想のもと挙兵した天狗党の乱は、大量処刑と言う惨い結末で幕を閉じる。

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幕末は佐幕派か倒幕派かで好みが分かれる所だと思う。前者では新撰組が有名だろう。後者だと桂小五郎、大久保利通、西郷隆盛など。水戸天狗党は広義の意味で後者に含まれるだろう。

烈士の墓の案内には「悲劇のヒーロー」と書かれていた。私はあまりどちらにも思い入れはないが、「ヒーローは持ち上げ過ぎじゃない?」と思った。じゃぁ幕府側で戦った人間はヒールなのだろうか?彼らも彼らなりの信条のもと戦ったはずなのに。
確かに命を賭して国を変えようとしたことは立派で、心打たれるものがある。
しかし、後世の価値観で良い所だけ摘まみ、一方だけを持ち上げ、もう一方を落とすのはよろしくない(個人の好き嫌いは別として)。
同じ理由で、杉原千畝を手放しで讃えることや、先の大戦での日本を必要以上に貶めた物言いにも納得できない。そう!納得できないんだ!!!

ただ、私たちが後世どうこう言うよりも先に武田耕雲斎は一つの答え、というか憂いを遺している。
それでは、今日は彼の辞世の句を紹介しながらお別れしたいと思います。

「討つもはた 討たれるもはた 哀れなり
           同じ日本の 乱れとおもえば」

武田耕雲斎

境内の趣
全体の森厳さ
場所の分り難さ
※★は評価ではなくあくまで個人的な好きポイントです。

 

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