【概要】
其の一.
仲哀天皇の御代、三韓の蒙古が来寇し、角鹿に着岸した。
仲哀天皇は角鹿に行幸され、蒙古軍と戦った。
その戦場を角鹿八景と言う。八景とは荒血山・矢田野・関原・越の中山・角鹿山・気比の海・帰山・五幡のことである。

其の二.
景行天皇の二十余年蒙古および越夷の大軍が角鹿に着船した。
天皇は小碓尊を討手の大将軍とし、吉備武彦を副将軍として越の国へ派遣した。

其の三.
聖武天皇天平二十年(748年)、 西海より異賊が来襲し、十一月十一日夜敦賀で地震が起き、
久志川の濱には数千の緑松が忽然と現れ、その樹上には数万の白鷺が白旗のように群を成した。
又数丈の岩石が北海に出現し、楯石は城門のようになった。
此の時、西海の賊船は悉く覆り、賊徒は海水に溺れる。

其の四.
弘安四年(1281年)蒙古が肥前の国に来襲のとき、敦賀の地の山岳が鳴動し、白鷺数千羽が気比の神林に集まり、
やがて西の海に向かって飛び去った。
この夜肥前の沖に停泊していた、蒙古の船の上を飛び回っていたが、見る間に波が逆巻いて船がことごとく沈没した。

『越前若狭の伝説』より抜粋
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敦賀には異賊来襲の伝説が多く残っている。
大きく分けると話は上記の4通りで、時代・登場人物は違えど、筋書きは同じである。
まず異賊が来襲し、それから守るように一夜にして浜に松が生え、岩が海中より出でて楯のようになり、数千羽の白鷺が異賊に向かって飛び立ち、驚いた賊徒達は(あるいは神威により)海に溺れるという流れである。

過去に異賊が敦賀に攻めてきたことは事実かもしれないが、本来はこのように一本に纏まった話ではなく、土地土地の伝説だったものを後世にまとめたのではないだろうか?
その証拠に松原、立石の伝説はすべてのパターンで登場するし、五幡の伝説では、其の一、其の三の話が混交している。
其の一は仲哀天皇や神功皇后を、其の二はヤマトタケル(小碓尊)を神聖化するための英雄譚かもしれないし、其の四は元寇の年であり、寺社勢力が自分達の力を喧伝するため作られたのかもしれない。

まぁ真相はどうであれ、こうして多くの伝説を残している異賊来襲の事件。
ここでは其の一で書かれた角鹿八景を中心に敦賀各地の伝説を取り上げていきたいと思う。

 

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