【概要】
天皇は官軍を率いて行幸になり、行宮(あんぐう)を造営された。そこを笥飯(けい)宮という。その時武内大臣若狭越前の要害であの地に関所を設けることを進言した。天皇の許可があり、関が原と越の中山に関所を立て、角鹿山の頂上にも番屋を置き、蒙古の船の進退見張らせた。この三か所の番屋へ六百騎を三手に分けておいた。

武内刀祢は知謀すぐれた大将であった。官軍六千騎を2手に分けて、刀根と杉箸の谷へ行かせた。刀根谷では竹を割って輪とし葉を千鳥掛けに編み皿を作った。これは当時の皿である。これを刀根谷より、川へ流した。後にここに里ができて杉箸村という。
両所から流すさらと杉ばしは数を知らず角鹿社の川口から流れ出て海上すき間もないほどであった。これを見た蒙古軍は、この川上にまだ数万の軍兵集まっていると思って、恐れをなした。

またその夜櫛川浜松原が一夜にして生じ、その松の枝ごとに白鷺が止まっていた。それを蒙古軍には大勢の軍兵がいるように見えた。きのう川上にいた軍勢が今角鹿浜辺まで押し寄せて来たと早合点して、あわてて気比の海から江良・五幡へ逃げ、置きに船を並べていた。

『越前若狭の伝説』より引用

関所建てから、氣比の海についての伝説です。

ここでは八景の内、一気に関原・越の中山・角鹿山・気比の海を紹介する。
関が原は天下分け目の大戦が行われた場所ではなく、現在の関集落にあたる。越の中山、角鹿山はそれぞれ現在の越坂から葉原辺りと、手筒山のことであるらしい。
この辺りでは戦闘は行われず、関所や番所を建て守りに備えたのである。

気比の松原は一夜にして松原が生えたことから「一夜の松原」とも言われており、複数ある蒙古来襲伝説のほぼ全てに登場する。
よく三大松原を、虹の松原、三保の松原、天橋立と言う人がいるが、天橋立ではなく気比の松原である!
覚えた所でテストには出ないけど、敦賀人の前で間違えるとすごく悲しい顔をするから忘れないで。お願い。

 

inserted by FC2 system