住所:
福井県敦賀市樫曲
文化財:
敦賀市指定文化財
カテゴリ:
史跡、古戦場、墓
其の他:

南北朝時代(西暦一三三六〜一三九二)後醍醐天皇の皇子恒良・尊良親王を奉じて、金ヶ崎にこもった新田義貞は足利尊氏の大軍に取囲まれ、兵糧の道をふさがれた。
延元二年(一三三七)一月南条町阿久和の杣山城主瓜生保は、金ヶ崎城救援に敦賀の地へ進軍、この地で足利の大軍と大激戦を展開し、遂に敗れ瓜生保や弟の義鑑・里見時成等が戦死した土地である。

付近案内板より引用

建造時期:
明治三十四年(1901年)

◆◆◆

雑感:

樫曲にある瓜生保の墓(戦死の地)です。

瓜生保は南北朝時代の武将で、旧・南条町(現・南越前町)杣山城主である。
建武の新政後の動乱で足利尊氏が朝廷に叛き、湊川の戦いで新田義貞と戦い、敗れた義貞は恒良・尊良親王を奉じて北陸落ちした。
その際、杣山城主瓜生保や氣比神宮大宮司気比氏治・斉晴父子、が新田義貞側に付いて戦った。

この辺りのより詳しい話は『太平記』に載っている。

さて本題の瓜生保の墓であるが、これまたしんどい場所にある。
樫曲集落の手前に橋がかかっており、その橋を渡ると瓜生保の墓の案内板がかかっている。

その通り進んで見ると山へ延びる道が現れ、そこにも「瓜生保の墓こちら」みたいな案内板が建てられている。
これは「道もアスファルトだし、近そうだから登ってみるか」と思わせる罠だ!舗装された道は直ぐに写真のような勾配のきつい山道(写真:左中央)になり、案内板も入口にあったきりで、ゴールの見えない山を延々歩かされる(実際には数百m位)。

息を切らしながら「保、もっと楽な場所で死んでくれ」などと罰あたりな事を考えていると、少し開けた場所に出た。
そこには一基の墓石があり、「瓜生判官保之墓」と書かれている。この墓石自体は明治時代に瓜生保の末裔が建てたらしいのだが、この場所が瓜生保の最期の地である。

私は軽く手を合わせて下山することにした。
帰りながら「・・・うん、これは太平記読んでから来た方がよかったな」と思ったが、無理矢理押し込めた。

 

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