住所:
福井県敦賀市松島町2丁目
文化財:
国指定史蹟
カテゴリ:
墓所
其の他:
大正三年二月敦賀の人片山政冶郎氏が、現在の形式に改修した。
墓石15基、武田伊賀守以下353柱。
作成時期:
大正三年(1914年)
(現在の形に改修)

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雑感:

松原にある、松原神社及び水戸烈士の墓です。

【要略】
水戸天狗党は元治元年三月二十七日(1864年5月2日)に筑波山で挙兵、京都に向かい出立。挙兵時は62名であったが、行く先々で浪士や農民、町民が加わり、最盛期には1000名を超える集団になっていた。
栃木、群馬、長野、岐阜と幕府の追撃軍をかわしつつ、敦賀の新保まで到達したが、時期は12月、北国の冬は雪深かった。一行は雪と幕府軍に行く手を阻まれ、遂に投降した。
投降した党員は暗く衛生的にも悪い粗末な鰊倉に押し込められ、多くの病死者を出した。
元治二年二月四日、武田耕雲斎含む24名が処刑(切腹ではなく斬首)されたのを皮切りに、1か月以内に352名が斬首、137名が遠島、180名以上が追放処分となった。
こうして尊王攘夷の思想のもと挙兵した天狗党の乱は、大量処刑と言う惨い結末で幕を閉じる。

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幕末は佐幕派か倒幕派かで好みが分かれる所だと思う。前者では新撰組が有名だろう。後者だと桂小五郎、大久保利通、西郷隆盛など。水戸天狗党は広義の意味で後者に含まれるだろう。

烈士の墓の案内には「悲劇のヒーロー」と書かれていた。私はあまりどちらにも思い入れはないが、「ヒーローは持ち上げ過ぎじゃない?」と思った。じゃぁ幕府側で戦った人間はヒールなのだろうか?彼らも彼らなりの信条のもと戦ったはずなのに。
確かに命を賭して国を変えようとしたことは立派で、心打たれるものがある。
しかし、後世の価値観で良い所だけ摘まみ、一方だけを持ち上げ、もう一方を落とすのはよろしくない(個人の好き嫌いは別として)。
同じ理由で、杉原千畝を手放しで讃えることや、先の大戦での日本を必要以上に貶めた物言いにも納得できない。そう!納得できないんだ!!!

ただ、私たちが後世どうこう言うよりも先に武田耕雲斎は一つの答え、というか憂いを遺している。
それでは、今日は彼の辞世の句を紹介しながらお別れしたいと思います。

「討つもはた 討たれるもはた 哀れなり
           同じ日本の 乱れとおもえば」

武田耕雲斎

 

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